2017年10月12日 (木)

上田城の三ノ丸 戦術解説

真田氏時代の上田城の三ノ丸には
現在の上田高校の位置に堀をめぐらした寺があったそうです。
(歴史群像参照)

そこで、この寺の戦術的意味合いを地形から
考察してみました。
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図を見ていただくとよくわかると思うのですが
大手を突破できなかった敵の進入経路を押さえると同時に、
防御力が弱い空堀を突破した敵が
河岸段丘の崖と崖に挟まれた空間で身動きが取れない敵を
殲滅する位置に寺が位置していることがわかります。

シンプルに見えますが、上田城の縄張りはよく考えられていますね。

2017年9月 6日 (水)

地形から推測した 上田城の縄張りの推移

①築城前
田切地形の舌状地形に小泉氏の古城と常田氏の館がありました。
古城を詰城として再利用していた様子が伺えます
(常田氏には幸隆さんの弟が当主になっています)
2
②第一次上田合戦時の縄張り
3
③蛭沢川を利用して三の丸を整備
(真田氏独力ではここまでしか整備できなかったと思われます)
4
④豊臣大名時代
徳川氏を抑える城にいちずけられたため
豊臣氏から増築費用が支給されたと思われます。
そのため、川の流路を変更する大工事が行われました
5
⑥関ヶ原後の破却後
6
⑦仙石氏による復興
7

地形から推測してみましたが、うまく筋が通ったような気がしています。
それと同時に、天正の上田城図は仙石さん時代の縄張りをとすごく似ているのではないか
という疑問がわいてきました。

2017年8月 6日 (日)

諏訪原城の縄張りについての考察

諏訪原城は武田氏が築城した城なのですが
落城後に松平さんによる改修が行われているので
武田氏の築城手法と整合しない部分が見られます。
その点について、縄張りを分析してみました。

①初期 諏訪原城

武田氏の勢力が強い時代に築かれたので
策源地としての機能しかなかったと思われます。
ゆえに、シンプルな縄張りだったのでは?
と推測してみました。
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②中期 諏訪原城
武田氏の勢力が弱まった時期に
防御力を向上させるために
小山城にみられる逆心曲輪と江尻城にみられる3郭と
大手に重ね馬出しを増設したと推測しました。

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③後期の諏訪原城
徳川軍が諏訪原城を攻撃した際に

発見したと思われる弱点、2郭から3郭の直線部分を

改修するために、3郭の隅を利用して

巨大な丸馬出しにすることで
弱い部分をなくす改修がおこなわれています。

それに伴い、2郭が小さくなっています

絵を描いていて気がついたのですが
武田氏時代の諏訪原城3郭の隅を利用して
巨大な丸馬出しを作ったと推測できます。

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④松平さんの改修箇所

外郭へ空堀を増設し、戦闘正面の変化(西から東へ)による

最前面になる本郭の防御力強化が行われる。

Photo_3

このように推測すると
諏訪原城の縄張りがすっきり理解できると思うのですが
いかが思われますでしょうか。

発掘の結果、本郭の焼けた土の上に土をもって

現在の本郭を造成したとのことですが、

これは、戦闘正面の変化による

本郭の改修を物語っていると推測しています。

2017年7月 1日 (土)

お勧めの本

いい本があったので
ご紹介させていただきます

・戦術の本質 木元 寛明 著
・戦国三代の記 真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃とその一族  市村到 著

戦術の本質は戦国時代の合戦に興味がある人におすすめです。
新品で手に入る本の中では、安くていい本だと思います。

依田信蕃さんの本は珍しいので
少々高いですが、手に入るうちに購入しておいて損はないと思います。

袋城

以前 江尻城について調べていたところ 
清水市の郷土史研究家の方が 
ホームページに袋城について
記事を書いておられました。

その記事を参考に袋城のドクトリンについて
絵を描いてみました。

Photo_2

当時の巴川の河口周辺はもっと複雑な地形だったようですが
資料がないので、簡略しています。

追記

袋城がある中州は巨大な馬出に見えてしまうのですが

いかがおもわれますか?

2017年6月22日 (木)

相良城 武田氏

城の本といえば城郭体系が有名ですが
その前に日本城郭全集というう本がありました。

その中に、武田氏時代の相良城の縄張り図が載っているのですが
田沼さんが再興したときに破壊されてしまったと
思っていたのですが、地図を見ていたら
武田氏時代の相良城らしき場所が残っていました。

道路の跡からの推定になるので
細かい場所はわかりませんが
フィールドワークしてみたいですね

Photo

2017年6月 4日 (日)

駿河 丸子城のドクトリン

古宮城を記事にしたので
駿河 丸子城も記事にしないと
いけないと思い絵を描いてみました。

丸子城の目的は、徳川軍を足止めして
駿河防備のための時間稼ぎだと思われますので
その観点で分析してみました。
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木橋を使っている点がポイントと思われます。
それと、城内道が重要な役割を持っているのですが
よく残っているなあと感心してしまいました。
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東海道から徳川軍が攻めてきます。
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木橋がとられているので、行き止まりで遅滞させられます。
その先には虎口が控えています。
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そこで、別方向からも攻撃を展開します。
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トーチカ状の堡塁からの射撃でこちらも遅滞させられます。
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虎口を突破さえると堡塁の守備兵は退却します。
Photo_8
堡塁を制圧しても、横堀で阻止されてしまうので
本郭への突撃と別方面からの助攻を行います。
(攻め手の兵力が少ない場合はこの局面で撃退されていると思います)

本郭を持ちこたえられなったら、ニ郭へ撤退し木橋を撤去します。

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ニ郭へ攻撃が集中します

7

ニ郭を支えきれなくなったら、三郭へ撤退するとともに、

敵に退路を遮断されないように防御を行いつつ

駿河方面に撤退します。


2017年5月21日 (日)

古宮城のドクトリン

歴史群像の記事は読まれたでしょうか?
長年お蔵入りしていた古宮城のドクトリン
を推定した記事を書きたいと思います。
順に図をクリックしてみてください。

Furumiya_11_2
Furumiya_2
はしごへ向かう敵の背面から回復攻撃&キルゾーンへ誘導します。

(当然はしごは敵の誘導に成功したら撤去してしまいます)

Furumiya_3
最前面の守備兵を退却させます。
Furumiya_4
キルゾーンで敵を殲滅します。その間に、守備兵を退却させます。
Furumiya_5
通常はこの局面で敵を撃退していると思いますが
危険になったら虎口に退却します。

守備兵を極力失わないように、配慮されている素晴らしい縄張りです。

Furumiya_6
さらに攻められてもキルゾーンへ敵を落として撃退していると思います①。
Furumiya_7
さらに攻められてもキルゾーンへ敵を落として撃退していると思います②。
Furumiya_8
側面からの回復攻撃で敵を撃退します。失敗すると厳しい状態に追い込まれます。
Furumiya_9
最終の防御ラインです
Furumiya_10_2
櫓からの援護射撃で時間を稼ぎ、搦手から退却です。

落城しても、

搦手からは本郭までは簡単に制圧でき、

簡単に主導権を取り戻せる縄張りになっています。

さすがですね。

2017年5月14日 (日)

歴史群像 No.143 2017年6月号

戦国の堅城に古宮城が取り上げられていたので
買ってみました。

長篠の戦いの特集記事があったので
読んでみました。
どうしても、信長公記という良質の資料があるので
織田さんについての記事が多くなってしまうのですが
いかに、感想を書いてみます。

武田さんの誤手
・先に設楽地方に進出していたのに野戦に適した戦場を選定していない
(主導権をとっていない)
・徳川・織田さん連合軍の徳川軍だけを撃破しようとしている
・最悪の状況でも長篠城を落とす策を練っていない

織田さんの好手
・準備万端

皆さんはいかがおもわれますか

2017年4月24日 (月)

オススメの本

本当は歴史群像の59,60,61号をオススメしたいのですが
手に入りにくいので

   

      用兵思想史入門  田村尚也著                                 

 
です。


お城を楽しむのに、戦術を理解していると

より楽しめるので、ぜひ手にとっていただければと思います。

                 
       

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