2018年2月11日 (日)

一騎打ち

両軍が激しく交戦している最中に
天才、政虎は武田軍本陣にいたる隙間が
小島田川にあることを見つけ
上杉旗本隊で武田軍本陣に切り込みます。
上杉旗本隊、武田旗本隊の激突となり
信玄は政虎と斬り合いになります。

信玄も危ないかと思われた そのとき
ようやく戦場に駆けつけた別働隊が、上杉軍に突撃し、
一気に合戦の流れが変わります。

・政虎の切り込み

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・別働隊、川中島に現る
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・一気に追激戦に
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武田軍本隊に衝撃走る!

武田軍本隊は別働隊と一戦した上杉軍が
犀川を渡河し横山城へ兵を引く際に
横田城、広田砦、大堀館を攻撃する可能性があるので

後詰として広瀬の渡しで千曲川を渡河し

対岸の八幡原に陣を張っていました。

(この時の陣形が後に魚燐といわれたのではないでしょうか)

しばらく時が過ぎたころ、合戦の音が響き渡ります!

しかも、妻女山で聞こえるはずの合戦の音が

横田城、広田砦から聞こえてきたのです。

武田軍に衝撃が走ります。上杉に裏をかかれた、

上杉の目的は武田本軍を攻撃することだったのか!と。

パニックになりつつ、典厩を中心とする左翼を横田城へ

義信を中心とする右翼を広田砦に迅速に送りだします。

(これが後に魚燐から鶴翼に陣形を変えたと伝えられたのでしょう)

・両軍ともパニック状態のまま戦闘に突入

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夜河を渡る

武田軍を見事山中に誘引した(以後別働隊と記す)上杉軍は
政虎の采配で一気に山を下り、千曲川を渡河し
横田城には甘粕隊で攻撃を仕掛け、
他の部隊は機動力を生かして善光寺脇街道を一気に進み
広田砦、大堀館に攻撃を仕掛けます。
ほぼ無抵抗の城を攻撃するのですから上杉軍は油断していたと思います。
しかし、直後、上杉軍に衝撃が走ります!
いないはずの武田軍が、横田城、広田砦の後詰に現れたのです。

上杉軍の兵は、上杉の裏をかいた武田軍が全軍で伏撃してきたと思ったことでしょう

上杉群は部隊ごとに右方向に転進して
パニック状態のまま武田軍の左翼(横田城方面)と
右翼(広田砦方面)に襲い掛かります。
おそらく、武田軍の正面とぶつからなかった部隊は
次々に武田軍の側面を攻撃したと思います。
この時の攻め方が、車係の陣といわれたのではないでしょうか。

・最大速度で機動する上杉軍
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・右翼、左翼で後詰を行う武田軍
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・右へ転進し、武田軍の両翼の側面に突撃する上杉軍

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2018年2月10日 (土)

妻女山布陣

さて、上杉軍が大堀館、広田砦、横田城を攻撃する際に
ネックとなる武田軍本隊をどう拘束するか?
という問題です。
武田軍本隊さえ出てこなければ
大堀館、広田砦、横田城の攻略の難易度は
大幅に下がります。

それをふまえて、上杉軍がとった策はというと
妻女山布陣です。

妻女山に上杉軍本隊が布陣すると、
武田軍は天城城、鞍骨城の防御力を上げるために
多くの兵を天城城、鞍骨城へ移動します。
さらに、数的優位を得ると、
上杉軍本隊に攻撃を仕掛けることができるようになります。

逆に上杉軍から見ると、武田軍の主力が分散したとみえます。
政虎さんはこの状況を意図的に作り出し
大堀館、広田砦、横田城を攻撃の障害となる
武田軍本隊を山中に誘い込んだと考えられますよね。

・犀川南側に出現した上杉軍を発見し武田軍に衝撃走る!

 それに応じ武田軍が海津城へ本陣を移すと、

 上杉軍は妻女山へ布陣!
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・それを受け武田軍は主力を天城城、鞍骨城へ
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両軍の作戦目的

地形を踏まえて
両軍の作戦目的を推理してみました。

過去の川中島合戦で明らかになったことは
・上杉軍は機動力に優れている
・武田軍には上杉軍の犀川渡河を防ぐ力がある

という点です。

それをふまえて、第四次川中島合戦の両軍の目的ですが

上杉軍
 ・犀川の渡河点を押さえる
  そのためには、大堀館、広田砦を攻略する必要がある。
 ・武田軍を千曲川右岸に封じ込める
  そのためには、屋代の渡し、雨宮の渡しに近い
  横田城も攻略する必要がある

武田軍
 ・冬になると兵を引く上杉軍とまともに戦う必要はないので
  犀川渡河点をおさえ、上杉軍の犀川渡河を防ぐ。

といったところではないでしょうか。

通説では海津城を落とすのが上杉軍の目的といわれていますが
それは、上記の目的を達成した後のプランだと思われます。

第四次川中島合戦の分析

以前も取り上げたねたなのですが
別の角度から分析してみたいと思います。

個人的に衝撃だったのはこちらの画像です
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ほとんど取り上げられていない上杉軍の行軍ルートですが
私は、事実だったのではないかと考えています。
その理由は、ルートに福平城があるからです。

この福平城は武田氏が築城した城で、

長野市付近の武田氏が関与したとされる

城の中でも最も高度な縄張りの城です。

この城の目的は
再度このルートで上杉軍が来た場合の時間稼ぎ
および遅滞だと思われ、第四次川中島合戦の戦訓から

築城されたと私は推測しています。

分析はこの上杉軍の行軍ルートが正しかったと仮定して
進めていく予定です。

2018年1月22日 (月)

上田城 まとめ 真田氏の戦術

ここでいったん真田氏関連の記事を終えたいと思います。
最後は真田氏の戦術についてです。

真田氏の基本的な戦術は
①山や河岸段丘といった障壁になるような場所に
 敵を誘い込み拘束する
②敵が攻撃限界に達したところで
 側面や背後を機動部隊で攻撃する
といった感じだったのではないでしょうか。

鉄砲が普及してからは
錬度が低い兵に鉄砲を持たせ、上記の障壁や城壁から
射撃を行うことで、敵を拘束しながら打撃を加える
という風に変化していったのだと思います。

このような戦術を行うには
・地形の正確な把握
・起動攻撃を行うための良質の馬
といったことが必要になりますが
真田氏の地盤はこのような資源に恵まれていたので
資源を有効に活用した戦術を開発したとも
いえるかもしれませんね

2018年1月21日 (日)

真田氏の家格について

この記事は憶測の記事になりますので
詳細は家紋さまのHPでご確認をお願いします。

真田氏は海野氏の出自とされていますが
海野氏出身の幸隆さんが真田氏に婿入りしてから
文献に記録が残りだしたようです。
そんな訳で、海野氏系の家格のランク的には
下記のような感じで、武田氏には重用されていましたが
信濃武将の中では格下に見られていたようです。
1位海野氏
1.2位禰津氏、望月氏(分家が甲賀忍術の祖)

4位?真田氏

海野氏と長年しのぎをけずっていた村上氏は
源氏の出自で名門です。村上氏系の家格は
1位村上氏
2位屋代氏

3位室賀氏

といった感じのようです。
(ですので真田氏は室賀氏と仲が悪かったようです)

武田氏の下で、真田氏は郡代の職についていた
上州の吾妻郡、利根郡を失ってしまうと
信濃の弱小豪族になってしまうので
沼田割譲の件については頑として
受け入れなかったわけです。

2018年1月19日 (金)

第一次上田合戦 徳川軍の戦略

この戦の時は武田旧臣が主体の軍でしたので
信虎さん時代の戦、「神川の戦い」を参考に
神川で真田氏と戦う予定だったのではないでしょうか。
それが、予期しない攻城に誘い込まれ
主導権を奪えないまま負けてしまった。

そこで、プランを変え
千曲川左岸地域を奪取し真田氏に圧力を加えるとともに
屋代氏との連絡路確保、
室賀さんの旧領を回復といった戦略に
変更したのではないでしょうか。
室賀さんの働きがめざましかったのは
このあたりにも要因がありそうで出すね。

ところが、要所の城を強化しており
なかなか城を落とせないで、膠着しているところに
石川氏出奔の大事件が発生し
撤退ということになったのではないでしょうか。

徳川さんの青写真をイメージしてみました。

真田氏との戦はキャンペーンの一部たったかもしれませんね

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2018年1月17日 (水)

第一次上田合戦時の真田氏の戦略

第一次上田合戦について気になっていることを書きたいと思います。

上田城の記事を書いていて気がついたのですが
第一次上田合戦の時に徳川軍が千曲川左岸地域
(とくに塩田平)を制圧してじっくり上田城を攻めたら
真田氏も窮地におちいったのではないかと。

千曲川左岸地域は真田氏の領地の中でも
新しく獲得した領国なので、敵対していた土豪が多い地域です。
ここに徳川軍が攻めてきたら、このような土豪を吸収して
軍を増強するとともに、真田氏の領国を切り取ることができるからです。

このような視点で絵を描いてみると
真田氏は神川と依田川を防衛線にしていた様子が伺えます。

・真田郷(神川上流)は砥石城、矢沢城でおさえる。
・塩田平への千曲川渡河点は小牧城で押さえる
・依田川は丸子城城砦軍と尾野山城で押さえる

これらのポイントが特に重要なポイントと考えられますよね。

一方で、国分寺周辺の神川渡河点には
防御陣地はなさそうな感じです。
徳川軍を誘い込む罠の匂いがしますよね。
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塩田地域への進入経路

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真田氏分家の館の位置追記(徳川軍の侵入経路にあるのが興味深い)

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